塩麹とはなぢ

身の回りの小さきを愛す

『死にたい夜にかぎって』を読んだ

『死にたい夜にかぎって』を読んだ。ダサい言い方をするけれど泣いて笑える。これマジ。泣いて笑った。

爪切男さんが関わってきた女性を軸に、超体育会系な父の話や前歯のないホームレスとの思い出などが綴られている。

中でも好きだったのは、僅かな毒を着実に蓄積させ目を回してダウンした極貧池下くんのお話、「サルビアの毒」。池下くんともちろん会った事はないけれど、めちゃくちゃに浮かぶ良いヤツ像。でも置かれている立場とか人からの目とかを考えてしまうと、同じヤツと思われたくないのも超わかる。そんなヤツと、蹴りあったりグルグル回ったりしてるのが楽しいと思ってしまうなんて、自分が爪切男さんの立場でも同じように拒絶する事しかできない気がする。ただ、もう話しかけに来なくなった池下くんが一人で目を回しても蜜を吸い続けていたと思うと、胸が締め付けられるような思いになった。どんな気持ちで、どれほどの時間全滅させられるくらいにサルビアをすり減らしてきたのだろうか。美しいだけでなく毒々しさも感じられるサルビアの花がなんともまた、池下くんの花に対する邪道さに似合っていてこの話がたまらなく好きになった。

また、ワンカップ大関のような花瓶でも花に最高に合う男でいようとする爪さんの器にも、どんな時も変わらないアスカへの深い愛を感じた。ここまで言える懐の深い男は、ここまでさせられる魅力的な女は、他にいるのだろうか。

私は、年齢も人間としてもまだ若い中の若い存在である。縮んで骨になる前に、この本を読んだように、良い経験をたくさん積もうと思った。死にたいような夜にぶち当たっても斉藤和義の曲を口ずさめるような強さが欲しいし、白塗りを数学のババアの声やクラスメイトの視線に耐え、潔く洗い流せる勇気が私には輝いて見える。超個人的に、私はベースを弾いていて、フジファブリックも好きだし、風呂は大っ嫌いだからこの本に無駄に共感ばかりしてしまう。共感を覚えるけれど、私の知らない世界も集約されている本に出会えてとても幸せだ。縮む前に出会えて、本当に良かった。

一軍すぎる本棚に可愛らしい表紙の『死にたい夜にかぎって』が当たり前に追加される。本棚も私の心も満たされている。幸せだな。

「余韻がやばい」を知る

余韻。よく若い奴らが言う。余韻がやばいー、とか。そう言う奴いけ好かなかったけれど、今の私は「余韻がやばい」状態っぽい。

そうとう心を持っていかれた映画を観た。観終わってしまったら虚無感でふわふわしすぎてどうしようもなくなってしまった。良い映画を観たからこその虚無。とりあえず寝まくろうと思った。たくさん寝て、起きてる時間を減らす。寝た後は色々変わってるかもしれないし。

変わらなかった。まずたくさん寝たかったのに、昼まで寝ようと思っていたのに色んな弊害に起こされた。しかも心は昨日のままである。めちゃくちゃに持っていかれたまま。これを「余韻がやばい」と言うのだろう。何をするにもふわふわしている。

治しようのない映画を観た後の症状。改善させたい。こんなに持ってかれちゃうって恥ずかしいよな。なんかヤダ。恥ずかしいわ。

涙ってあったかい

家に帰っても、もう映画の中の人々に会えないことが悲しくて悲しくて涙が溢れてきた。内容を振り返れば主人公の心情の変化を思い出し涙が出る。無心になろうとしても、もう会えないスクリーンで生きていた彼らを思い出してしまう。

いつもいつも映画館に足を運ぶと、その劇場に心を置いていってしまう感覚だ。泣きまくってぼやけた視界のまま外へ出るから、私の正常な気持ちが置いてけぼりになる。

失くした平常心が教えてくれたこと、それは涙は温かい。目から温泉が出てるみたい。頰をつたってもなお、失くした気持ちの分を取り返そうとしているみたいでなんだか愛おしくも思えた。温かいだけでなんでもない涙。でも、冷たいより温かいに越したことはない。

これからも思い出しては打ちのめされそうなくらいに影響を私に与える映画。温かいというオプションのついた涙だけでカバーしようとする私の深層心理を抱きしめたい。

空っぽで満たされている心は、色んな気持ちを失くしているようだ。それに今日気づいた。カバーしてほしいなあ、たとえそれが無謀でも。

いいモノのせいで

いいモノ。音楽、映画、本。良いモノを探し求める。なのに、良いモノに出会うと抜け殻みたいになる。

今抜け殻。小さい時から映画はよく観てたが、毎回心が満たされた後に何故か空っぽになる。空っぽなのに満たされてるし、満たされてるのに空っぽ。それを自覚し始めた頃から、映画は一気観しないようにしていたのだ。忘れてた。今日も一昨日も映画を観てしまった。やべー空っぽ。

満たされてる。最高の映画を観れて幸せだった。なのに、あの時間がもう戻ってこないと思うと心ががらんどう。いま虚無感がすごい。パンフレットを眺めては涙が出て、音楽を聴けば映画を思い出してしまう。

あと一週間はこんな生活を続けそうだ。ふと思い出しては溢れそうな心を守る。守ったら虚無。やべー。映画の影響力やばい。

満たされすぎたせいって、幸せすぎる悩みなのかなあ。

『百円の恋』、『私たちのハァハァ』を観た

  『百円の恋』、『私たちのハァハァ』を観た。最終日でした。

はぁ。圧巻。二本続けて観られるなんて幸せ者でしかない。

映画館の一番前はデメリットしかない、とはてなブログもなんかのアフィリエイトなサイトにも書いてあった。そんなのよく言われることだから知ってたけれど、一番前のど真ん中に座った。初めて一番前、しかもど真ん中。変に大胆なところがある。座った瞬間に後悔した。周りには誰も居ないし、首が痛くて観れたもんじゃないってたくさんのブロガーが言ってたし怖かった。

いざ予告編が流れるもうどうでもよくなった。首は痛くないし、スクリーンを独り占めしているようでなんだかワクワクした。とても良かった。

『百円の恋』、嗚咽をハンカチに託す。観た映画をまた劇場で観る事が初めてだった。

やっぱり思う。大切な映画だ。また馬鹿みたいに泣いたけれど、前回よりも見た後の気持ちがスースーしている。ミントを肺に満たす気分。

一子の変わってゆく姿をまたスクリーンで観ることができてよかった。彼女の闘う姿を見守る人々は、何かしらの形で帽子をかぶっている。まるでスパーリングのヘッドギアのようだ。一子はコンビニや弁当屋の帽子を、ヘッドギアを脱ぎ、リングへ上がる。どんなに痛くても闘う彼女は逞しくて美しかった。格好良かったなあ。また、一子にしてもらった事を精いっぱい不器用にお返しする裕二の姿にも胸を打たれる。ダメ男だし、単純でバカだ。だけど、不器用すぎる優しさが彼にはあって、それが魅力でもある。一子を振り回してさんざん傷つけたけれど彼の焼いたでっかい肉や、離れないように固く手を握る姿を見てしまえば、こいつはダメだ、なんて言えない。

うーん。まだまだ思ったことはたくさんあるけれど、うまく伝えられない。また今度ゆっくり書けたらいいな。とにかく私にとって大切で大切で最高で大切な映画を観ることができて幸せだった。

『私たちのハァハァ』。これははじめたみた。最前列のど真ん中に、孤独なんて感じなくなっていたけれど、気づいたら両端に人が座っていた。安心である。

これも「痛み」が肝。主人公の女子高生四人は誰の心にもいると思った。どの立ち位置にも回ったことがある。そしてどの立ち位置でも、痛みを感じる。女子高生というブランドで、している事の小っ恥ずかしさとか重さをノリとかテンションに乗せて隠す。それは本人たちにとって痛いだろう。苦しいはずだ。

北九州から東京へ、好きなバンドのために家出。金髪に染めてみたり、汚い言葉を使ってみたり。憧れが湾曲して、彼女たちを爆発させる。

爆発のせいで大好きなクリープハイプのファイナルステージでやらかす。ただ、これが本当に彼女たちが求めていたモノだった気もする。モヤモヤは尽きないだろう。ふとした時に思い出しては頭を抱える姿が想像つく。でも痛くてもこれから闘わなければいけない。渋谷を、新宿を、どこでも四人で駆け巡れるように、力はあるのだ。

二本立てで映画を観て体力がなくなるのではないかと初めは思っていた。真逆だ。力をめちゃくちゃに貰っている。日常で磨り減った何かがフルに満たされている。こんなに良い映画を観ることができて幸せで仕方がない。過去の凹んでいた自分が励まされるような気持ち。

うー。良かった。観ることができて良かった。また観たい。幸せだった。今からパンフレットをコロコロ変わる顔色でめくります。ニヤニヤしたり泣いたりするだろうな、楽しみ。

微睡み

あのラジオの音が遠のく。大好きな曲のギターリフが脳内に淡く溶け込む。

春は眠い。少しでも横になったらもうお終い、微睡みが膜を張って私をどこかへ連れていく。それは馴染み深い場所かも知れないし、異国の見た事も無い街かも知れない。意識があるのかないのか、うとうとしてふわふわしているあの時間。大好きだ。

「微睡み」という概念を作った先祖は感受が尖りに尖っていたのだろう。字も存在も、ぴったり「まどろんで」いる。言葉って奥が深いのだな。満員電車から解放された時、一人で家までの道を歩いている時、そんななんでもない時間に、ふと言葉の持つ奥深さに気づく。

あのふわふわした極めて短い時間が、丁寧に切り取られ言葉として残される。まるで化石発掘のようだ。"あの感覚"を誰かが発掘し、「微睡み」と名付け概念として展示する。その誰かは、名も残らない誰かなのである。そこは博物館のように発掘者の名は残されたりはしない。

ただ、ながいながい間、美しい言葉が発掘された形のまま残っている事に安心する。誰が言い始めて誰が見つけたかもわからない、この美しい概念が、今も目をこすりながら文字を打っている人間に届いている事がとても嬉しい。

私は今確実に「微睡み」の手前にいる。この言葉の美しさはエタノールのように、すぐに私の肌に馴染む。もう「微睡み」に身を預けようか。甘美な響きである。微睡みに身を預けるなんて。これこそ耽溺だな。でも今の私は風呂も何もかも後にして、微睡んでしまいたい。遠のきを感じる前に、自分から「微睡み」にすり寄ろうじゃないか。

インドバスの思う壺

時間を守らない事で有名なバスを乗りこなす為に早すぎるくらいに駅に着く。悪評で名の知れたバスを利用する者の常識である。時刻表通りに乗ろうものなら電車に乗り遅れるのだ。時刻表が機能しない、日本らしからぬバス。

おいおめーはインドか。約束の時間を守らない事で有名なインドの人々なのか。ただインドの人々は自由を貫いた結果に、待ち合わせに遅れる事も承知の上である。いやいや日本のバスはおかしい。今日だって電車に乗れないことを危惧して、時刻表の30分前に乗った。それくらいしないといけないのである。

なのに、クソ。今回に限って時間通りに来やがって。30分余った私は、レモン味のメッツを探しにコンビニ、スーパーと二軒巡ったのにも関わらず、見つけた!と思って手に取ったソレはグレープフルーツ味のメッツだった。許せない。グレープフルーツが嫌いなわけじゃないけれど、レモン味と思って飲んだら残念だ。そりゃ残念。波田陽区も出てくるレベルで残念。

マジで不便。時間を守らないバスはもうバスじゃない。無駄に運賃高いし、なめてんのか。許せん。それでも乗車する我々を嘲笑うように、今日も明日も明後日も遅れるだろう。そして私もこれからも乗るのである。くそう。悔しいわ、思う壺。悔しい。