塩麹とはなぢ

身の回りの小さきを愛す

微睡み

あのラジオの音が遠のく。大好きな曲のギターリフが脳内に淡く溶け込む。

春は眠い。少しでも横になったらもうお終い、微睡みが膜を張って私をどこかへ連れていく。それは馴染み深い場所かも知れないし、異国の見た事も無い街かも知れない。意識があるのかないのか、うとうとしてふわふわしているあの時間。大好きだ。

「微睡み」という概念を作った先祖は感受が尖りに尖っていたのだろう。字も存在も、ぴったり「まどろんで」いる。言葉って奥が深いのだな。満員電車から解放された時、一人で家までの道を歩いている時、そんななんでもない時間に、ふと言葉の持つ奥深さに気づく。

あのふわふわした極めて短い時間が、丁寧に切り取られ言葉として残される。まるで化石発掘のようだ。"あの感覚"を誰かが発掘し、「微睡み」と名付け概念として展示する。その誰かは、名も残らない誰かなのである。そこは博物館のように発掘者の名は残されたりはしない。

ただ、ながいながい間、美しい言葉が発掘された形のまま残っている事に安心する。誰が言い始めて誰が見つけたかもわからない、この美しい概念が、今も目をこすりながら文字を打っている人間に届いている事がとても嬉しい。

私は今確実に「微睡み」の手前にいる。この言葉の美しさはエタノールのように、すぐに私の肌に馴染む。もう「微睡み」に身を預けようか。甘美な響きである。微睡みに身を預けるなんて。これこそ耽溺だな。でも今の私は風呂も何もかも後にして、微睡んでしまいたい。遠のきを感じる前に、自分から「微睡み」にすり寄ろうじゃないか。