塩麹とはなぢ

身の回りの小さきを愛す

相剋

世の中はまるで、まるで苦しいことが多い。ひっそりと暮らそうものなら、神がわたし自身を引き裂くかのように、痛みと分断した意識の在り方を投げ捨て、泣きながら自分で自分を接着している気持ちになる。

藝術はどこにでも転がっている。絵や映像や立体や、そんなものだけでなく、我々が普段使う「言葉」は歴とした表現であり詩であり藝術である。言葉は生活の道具に身を潜めているせいで、人間がずさんに扱うことが多くて不憫だなと思う。本当はやいばの如く鋭い孤独を持っていて、人を傷つけたり心を腐らせるのに十分な凶器だ。多くの人は気づかずそれを振り回し、水くさい御託を並べ、錆させては自分のせいなのだと気づけない。

そして反対に、言葉のもつ孤独はいくらでも優しさになり得る。痛みを知らない者が優しくなれないのと同じように、我々の意識に言葉を重んじる様があるのなら、いくらでも志の火に燃ゆるのだ。わたしは、わたしは言葉を愛し、そして血の通った「生きている」言葉をひとに伝えていたい。言葉は使いようによっては、本当の愛の具現化であり、心象が慎ましく形取られる最高の手段であるのである。

他者から思慮の足りない言葉を投げられた時、相手は全く無意識なのだろうが、いや、その無意識ゆえにわたしは浅ましさに心を傷めてしまう。塩を塗り込むように、その瞬間すら涙を流しながら、わたしは途方もない世界への絶望と、狭い箱の中に居るような現状に、心の中自分の吐瀉と腕から滴る血に「本当」を知るのだ。そんな意識を抱くような生活ばかりしている。

これからやっていこうと、自分なりにいろんな苦しみを咀嚼して、その上で、あっけらかんとして生きているのに、他者の他者による惨い行いから、わたしはその全てに傷つき打ちのめされる。

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鬱々とした気持ちは、美を眺めることに尽きる。

1ヶ月前ほどから花を買うようにしている。この花にはこれはご法度!みたいなルールは大嫌いだ。自分の思う美を、自分で買った花瓶に入れた瞬間、わたしの世界に入ってきた瞬間、完成された美になるのである。他者の決めた美しさなどに振り回されてる暇なぞない。

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君たちはどう考えても美しいのだ。穢れなどの、人間の溢れんばかりの膿からわたしにしるべを与えてくれる。光の届くままに、影を自由に落として、枯れるまで、その枯れる瞬間さえ美を追究しているのだ。

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花瓶も好きだ。好きなものだけを好きなだけ、わたしの自由は花瓶から生まれるのかもしれない。苦しい毎日を、他人に振り回される毎日に、安らぎの器がわたしの心に必要だったのかもしれない。

 

人が罪を犯したり、命を絶ったり、わたしは齢十七にして、なかなかのハードな生き方をしていると思う、そう思わなければ身が分裂してしまいそうになる。わたしのこの苦しみを、藝術が、藝術が、藝術として消化できる日のために、わたしはにがを噛みしめ、そして、傷ついて生きてゆく。進路や受験やそんなことを超えて、わたしは表現者として、傷すらをも美しい柄にしてしまおう。強く弱く、苦しみを背負って美しくいたい。花は枯れるまでが美なのだが、わたしは枯れる姿も、蘇生する姿も美でいたい。

わたしは表現者であり藝術の一端を担うのだ。