塩麹とはなぢ

身の回りの小さきを愛す

n街にて 

飼い主を待つ柴犬に勝手に心を重ね、撫でようとしたら噛まれそうになった。なんだこの犬はと、恥を紛らわすかのように罵りの意を抱いたけれど、噛みつこうとするところまで自分と重なった。唸ったのちにフセをして、歩ける時を待ち続ける毛並みが、わたしの憂鬱の流れにそっくりだった。

よろめいた時に差し出される手を、いつでもわたしは弾いてしまう。近しいものには啖呵と共に、友人ならば諧謔を交えて攘う。勝手に一人になって、勝手に傷ついて勝手に苦しんでいる。ほんとにコスパの悪い人間だ。誰かの苦しみには敏感で居てしまうし、むしろ本人よりも傷つくことの方が多い。普段はそういうところをゴッテゴテのオブラートに包んで、もしくは甘ったるいアイシングのように覆い隠して、角の取れた人間で居る。心がダメなせいで交換できていない花瓶の水みたく、ドロドロと在る。

犬に噛まれそうになってからは凹んで歩いていた。やはり恥ずかしい。勝手に自分と重ねて噛まれかけているところを思い返すだけで、心に鎮が増える。同時に小学生の理科の実験を思い出した。分銅は見た目のわりにずしりと重くて、出来事と心のダメージの図と同じだなと汚い商店街を進みながら想う。

うえに書いたけれど、心がダメなのでまるで花の水換えができない。花を見ても、枯れていく様を見ていてもどうにも体が動かない。花も花瓶も好きなのに、どうにも苦しい。それゆえ、今日は花屋に通りかかっても絶対に買ってはいけないと決意して外出した。誤った考えだとはわかっているけれど、自分と関わった者が皆不幸になっていくマズい観念がわたしを支配している。マジでそれは違うとわかっているものの、意識と無意識は全くの別物だ。共通項がない上に理解しあえない。わたしはその乖離に苦しんでいる。だからこそ、買った花を全て不幸にしてしまうように心から思っていた。わたしは固く買わぬと決意をして、気怠い足首を前に進めていた。

最寄りではないn街に赴いているからこそ、閉塞的な空気に流される。老人同士がわたしの持つ元気の500倍で会話しているし、ヤバい奴が駅前でキムチを売っている。そんな感じなので別に嫌いになる程の情もないし、もちろん好きでもない。

花屋に差し掛かった。ここはとても安いなと前から思っていた。よく行くa街は、スッゲーお高く止まってるので平気で900円とかを叩き出す。それに違和感を覚えていたからこそ、n街の超良心価格には好感が持てた。入った。入るんだ、と自分で思いながら入った。

老人同士の密なコミュニティで出来上がっているようなn街の住民は、わたしが入店しても完全に会話に夢中だった。小さくてほぼクローンみたいなおばちゃんたちが、ガヤガヤと、ガヤガヤというオノマトペが最も似合う形で話していた。

でも、それくらいがいまのわたしにはちょうどよかった。

アルストロメリアを眺めていると、会話を唐突に辞めて一番状態がいいものを持ってきてくれた。とても嬉しかった。淡くて大きくて、蕾がたくさんあるものをわざわざカウンターの奥から引っ張り出してくれた。うるさいおばちゃんたちは厄介者に扱われることの方が多いが、その生命力と迸る前向きさに、わたしは幸福を犇と感じた。

妙にクシャクシャとした喋り方で、花の手入れの仕方や、他に似合う花を教えてくれる。やはり幸福だと思った。

話したことのない者と話す、だいたいは武装した心で"扱いやすい人"で居る。でも、この時はありのままであれた。彼女らは小さなピクセルの感情なぞ気にせずに、でっかく粗く生きている、身長は小さいくせに。だからこそ、わたしは本当に居心地が良かった。会計も慌ただしく、せわしなくするおばちゃんたちをみていると心からクスリと笑みが溢れる。ハムスターみたいだ。かわいい。煩う多くのことを考えないで済む時間だった。そして、店を出た後も幸せだと思えた。

商店街を歩いていた時、花屋に入るまではずっと死にたかった。別にわたしはリストカットもしてないし自殺願望もない。ただただ、無意識が死にたいと思うのだ。重なった不幸を繊細な感受が大きく捉えすぎて、ただただ死にたいと思う日々である。わたしには芸術があるのだし、制作をすることは何よりも楽しくて刺激的なのに、生活はまるで息苦しい。そういう時期なんだろうと割り切っているけれど、動かない体に、積み重なるやらなければならないことが心を締め付ける。他人のことを、信じたくても信じられない心がバカバカしくて、生き恥だなと思いながらトボトボと歩いていた。だからこそ、傍若無人な彼女たちに、わたしの心の花瓶の水換えをしてもらったみたいだと素直な喜びが体内に巡っていた。

気まぐれな出会いは、わたしの煮える病の綻びを握ってくれた。温かな、恥ずかしいくらいの体温で寄り添ってくれる。家に帰って水換えをした。4日ぶりくらいだ。花には申し訳ない気持ちでいっぱいだけれど、ぬめりをとって、透明な水に入れてあげられたときも心が健やかになれた。

 

淡くて悠なる花を眺る。昨日の苦しみを、明日の苦しみを邂逅の瞬きで無くしてしまえるように、手を退け唸る犬のような心の刺を抜きながら、わたしは生きる。生きるんだ。

 

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相剋

世の中はまるで、まるで苦しいことが多い。ひっそりと暮らそうものなら、神がわたし自身を引き裂くかのように、痛みと分断した意識の在り方を投げ捨て、泣きながら自分で自分を接着している気持ちになる。

藝術はどこにでも転がっている。絵や映像や立体や、そんなものだけでなく、我々が普段使う「言葉」は歴とした表現であり詩であり藝術である。言葉は生活の道具に身を潜めているせいで、人間がずさんに扱うことが多くて不憫だなと思う。本当はやいばの如く鋭い孤独を持っていて、人を傷つけたり心を腐らせるのに十分な凶器だ。多くの人は気づかずそれを振り回し、水くさい御託を並べ、錆させては自分のせいなのだと気づけない。

そして反対に、言葉のもつ孤独はいくらでも優しさになり得る。痛みを知らない者が優しくなれないのと同じように、我々の意識に言葉を重んじる様があるのなら、いくらでも志の火に燃ゆるのだ。わたしは、わたしは言葉を愛し、そして血の通った「生きている」言葉をひとに伝えていたい。言葉は使いようによっては、本当の愛の具現化であり、心象が慎ましく形取られる最高の手段であるのである。

他者から思慮の足りない言葉を投げられた時、相手は全く無意識なのだろうが、いや、その無意識ゆえにわたしは浅ましさに心を傷めてしまう。塩を塗り込むように、その瞬間すら涙を流しながら、わたしは途方もない世界への絶望と、狭い箱の中に居るような現状に、心の中自分の吐瀉と腕から滴る血に「本当」を知るのだ。そんな意識を抱くような生活ばかりしている。

これからやっていこうと、自分なりにいろんな苦しみを咀嚼して、その上で、あっけらかんとして生きているのに、他者の他者による惨い行いから、わたしはその全てに傷つき打ちのめされる。

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鬱々とした気持ちは、美を眺めることに尽きる。

1ヶ月前ほどから花を買うようにしている。この花にはこれはご法度!みたいなルールは大嫌いだ。自分の思う美を、自分で買った花瓶に入れた瞬間、わたしの世界に入ってきた瞬間、完成された美になるのである。他者の決めた美しさなどに振り回されてる暇なぞない。

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君たちはどう考えても美しいのだ。穢れなどの、人間の溢れんばかりの膿からわたしにしるべを与えてくれる。光の届くままに、影を自由に落として、枯れるまで、その枯れる瞬間さえ美を追究しているのだ。

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花瓶も好きだ。好きなものだけを好きなだけ、わたしの自由は花瓶から生まれるのかもしれない。苦しい毎日を、他人に振り回される毎日に、安らぎの器がわたしの心に必要だったのかもしれない。

 

人が罪を犯したり、命を絶ったり、わたしは齢十七にして、なかなかのハードな生き方をしていると思う、そう思わなければ身が分裂してしまいそうになる。わたしのこの苦しみを、藝術が、藝術が、藝術として消化できる日のために、わたしはにがを噛みしめ、そして、傷ついて生きてゆく。進路や受験やそんなことを超えて、わたしは表現者として、傷すらをも美しい柄にしてしまおう。強く弱く、苦しみを背負って美しくいたい。花は枯れるまでが美なのだが、わたしは枯れる姿も、蘇生する姿も美でいたい。

わたしは表現者であり藝術の一端を担うのだ。

シナプスを恨む

調理実習が大嫌いだった。

何もできないのは自明なのだが、蓄積された小賢しさにより「やってる風」はうまいので、メチャクチャ丹精込めて(る風に)皿洗いをしたり、大根おろしはおろしすぎるまで自分の仕事にしていた。かなりスローな行動で時間を稼いでいたが、丹精感が強いおかげで誰にも何も言われなかった。

実習中に私ができることは洗う・おろすの二つであるがゆえ、それらの仕事が終わった瞬間に地獄が待ち受けている。

普段から、教室に物が落ちていたら率先して拾ったり、隣の席に座るあまり仲良くないし結構イケすかないし、ていうか割と最悪な記憶のある同級生が居たとして、そいつがペンを落としても率先して拾い渡すような器の大きさを、神に誇示していたのに。なぜ神はこんなに容易く地獄を提供するのだろう。旧約聖書かってツッコんだ。心の中で。うそです。今思いました。まあそれにしても、日常に地獄は潜みすぎている。ポケモンで言えば、地獄はコラッタくらいの頻度で出てくる。雑魚が。ラッタになったところで、お前は一生パーティーに入れないのにな。

地獄、つまりおろしも洗いもなくなった調理過程に、わたしは砂糖を量る係になってしまった。

ぽつねん、という言葉はこういう時の為なのだろう。広い調理室の中、誰の姿も見えない。私がひとり、白紙の脳をつかって班員の分のさじ量を計算せねばならない。ぐつぐつと煮えたぎる、一度入れたら取り返しのつかない地獄の釜にぶち込むところまでが役目。無理だ。責任が重すぎる。

運の悪いことに、人数調整の関係でほとんどは5人班なのに私たちの班は4人班であった。まわりに配合を聞いても、人数が違う為に話にならない。焦る。しかもなんか圧をかけてくるヤバめの奴と同じ班である。終焉。

そしてテンパった末、砂糖と塩を間違えるというウルトラハイパーベタすぎだし最悪な失態を犯した。泣いた。マジで。地獄みたいた空気になった。しかも何もできないのに、皿洗いも奪われた。己だけで済んでいた地獄が拡大した。共有する地獄はつらいな。

狼狽という言葉は、きっとこの時の私のためにつくったのだろう。先人よありがとう。どうすればいいか分からなくて、シンクに歪む自分の泣き顔を見た。熱気に紛れて、力強く滴る涙が情けなかった。甘すぎる地獄の釜の中身を想像して、塩気が強すぎる涙を飲んだ。

そのあと普通に先生が助けてくれて、普通の食べ物になった。何をつくったかは覚えていない。

あんまり美味しくなかった。ていうか味がしなかった。でも、あの時間をかき消すかのようにおいしい!!いろいろあったけどおいしいね!!と言いながら食べた。胸に通る温かい液体が、涙の分泌を促していた。シナプスを恨んだ。

S(壮大な)J(時間を)K(拵える)

久しぶりに書いてみる。

冷たすぎる爪先をヨレヨレの布団に押し込みつつ、将来の不安や目先の出来事に板挟みされている。あと一年もすれば大学受験。完璧な不安材料である。

というか、大学受験と改めて文字にすると、普段意識していなかった自分の"高校生さ加減"を実感してしまう。忘れがちだが、なんたってわたしはSJK。笑ってしまう。セカンド女子高生なのだ。

 

爪先がだんだん温くなってきた。

今年はまさにターニングなポイントが多く、自分の進路を大きく変えうる出来事さえあった。クリエイティブな世界へ、なかでも全方位的な面白さを求める世界を覗き見したことで、自分の感性や度胸が試される時がなかなか多かった。ホンモノに触れる機会はそうそうない。ホンモノなひとたちに出会えてよかった。

そしてなにかをつくることはマッジで大変なことなのだと痛感しまくった。時に自分をはちゃめちゃにしながらも、やり遂げることに意味があるのだとわかった一年でもあった。

 

完璧に血が通った。爪先に生命を感じる。つまり、わたしは長いこと布団に足を預けているんだな。おい受験生だろうがよ。お前は高校三年生の0学期だろうがよ。はあ。

こんな感じで、いろんな人に言われた色んなことが私のアタマを支配し完全に統治する。

それはつまり、性格の悪そうな腹の出た王様が、わたしの脳内で指示をたくさん出しているみたいなこと。色んな人に言われた、将来に関するコワい助言、傷ついた助言、蜂蜜みたいな助言、その全てを意地の悪そうな直属の部下に伝えてるみたいな、なんとも嫌な妄想がわたしの身体を乗っとる。噛み尽くしたガムのように、もしくは牛みたいに、ペチャクチャと言葉を形骸的な存在に成して反芻する。恐ろしい。

 

イメージにボコボコにされる。そんなイメージがすごい。

 

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そういえば、わたしの毎日見ているlike a ドブじゃない、美しい海をしかと見たのも今年だったな。

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あとムッチャ可愛い鞄をプレゼントしてもらったのも今年だ。

 

割となんでも悲観的に捉えてしまうが、短い人生の中で一番実り多く、甘く苦く美味しい一年であった気がする。これから待ち受ける現実とか、私の見えない未来はきっと自分でしか切り開かないのだと、今更、ホント今更ありふれた言葉が自分の中に宿る。

 

来年は焦燥に駆られながら、実務的には短いだろうが体感は長くて、それはそれは壮大に感じる一年になるだろう。そんな時間を無碍に扱わず、自ら拵える気持ちで進みたいな、進まねば。

 

 

そういえば、ずっと悩んでた鼻血、メチャメチャな鼻炎のせいだった。初めて耳鼻科に行って、信じられないくらい荒れた鼻腔をみて笑っちゃったよ。それを知っただけでもマジ実り。鼻血嫌い、鼻詰まり嫌い。

鼻血放ち

ちょうどコレを書き始めたのは去年の今頃、ちょうど鼻血がで始めた頃、ちょうど一年前。

でも最近は余裕がなく日記をかけない日が続いてた。

 

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ずっと現像していなかった写ルンですは宝箱のようで、撮った覚えもない素敵な写真がたくさんあった。ソフトクリーム、多分食べてない気がするし。

フィルムの写真は感情がザラザラと表面についてるみたいで好きだ。ヨーグルトについてくる砂糖みたいに耽美的でもあれば金縛りのように見えない手で心臓を掴まれるような感覚に陥ることだってある。写真が写真以上の何かになる瞬間は蕩けるみたいに心が凍る。アルバムに入ったチェキを眺める時、データフォルダを見返す時、いつも相反するイメージを孕んだその気持ちが溢れ出る。

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そういえばメリーゴーランド乗ったんだったな。遅すぎて全然楽しくないことが愉快だった。

嗚呼、もう春だ。新学期です。増した未来への責任が重すぎる。明日から頑張らなきゃ。いや「頑張らなきゃ」はダメだな。

「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎて自己否定に苛まれていた時、あんなひょうきんな友人が頑張らなくていいんだよ、と言ってくれたことがあったな。とっても嬉しかった。春はそんな程度でいいんだよね。いま一瞬でもそう思えるならそれは素晴らしい事。信じよう、ひょうきんなあの子も自分の今も。

今日も鼻血は出た、風呂に入っている時に出た。なかなか手慣れたもので慌てもしなくなりました。一年は長くて短くて長い。今年を大切に生きたい。忘れたくないことを忘れないために、自分のしたい事を揺るがさないために、ね。

12/26水曜日のダウンタウン2時間SP

最近ずっと投稿していなかったけど、コレはせざるを得ないトンデモ回だった。

まずはOP、毎度のごとく最高すぎるヤツ。

今回はクリスマス後だったからチキンライスの歌詞が「昨日はクリスマス」としてサンプリングされていた。サンタとトナカイに代わってエルチキンライスとニワトリが空を飛んでいる。チキンライスと七面鳥が風とともに(?)飛んできていて可愛らしいのに残酷。背景にも青い星的なヤツが流れてきているんだけど、まさか違法アップロード風コマへの前フリだったとは思いもしなかった。

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もっと言えば最初のサンタエルチキンライスの背景は、元ネタの違法アップロード画像の背景と似てるし、どこまでが計算なのかわからないくらいのクオリティの高さ。f:id:aaapei:20181228142832j:image

なによりも驚いたのが一瞬映ったコレ。f:id:aaapei:20181228143111j:image

台湾のあのパクリOP番組をさらにパクる(サンプリングする)、最高としか言いようがない。天才。少し前のコマの小宮歯磨きシーンから、なんとなく来るんじゃないかとは思っていたけど、一瞬すぎて最初は気づかなかった。それにしてもほぼ完コピで震える。

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個人的には「思わぬとこにドブが潜んでも」というリリックの時にテベコンで披露した『コウメ太夫のチクショー1週間』の「水曜日はドブに落ちて」が再び出てきたところ、最高だった。

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前のOPにドブシーンのイラストが出た時は全面的だったけど、今回は慎ましくそーっと出てくるところに笑ってしまった。コウメのヤバすぎるネタが、何かを暗示しているよな気さえしてしまってこれもまた震える。

他にもナウリとか放送日二日前に出たPUNPEE「Happy Meal」のMVの一コマだったり、あがりっぱなし。全てにおいて完璧で最高。「生放送でトラブル避ければなにその 」というリリックがまた、今思うと趣深いというか、とりあえず「生放送では」トラブルは避けられた皮肉さも、結果論だけど水曜日っぽかったりするなと思った。

 

そして本編、まずは恒例企画「第4回替え歌最強トーナメント~男子高校生編~」。ネタももちろん面白いんだけど、ナレーションが特に面白かった。「得意の歯」的なキラーフレーズたちが、のっぺりしがちなトーナメント企画を盛り上げていた気がする。ザコシの隠し玉は、もはや消去法で選ばれた気がしなくもないけど笑った事には変わらない。

そして楽しみだった「Mr.シャチホコのオレオレ電話でアッコファミリー全員集められる説」。シャチホコのアッコクオリティは世の中に広まりつつあったけど、この検証は画期的で面白かった。ファミリーが「騙されていく様子」だけでも十分面白いのに、まさかのあの勝俣州和だけが「見破る」という最高の展開で死ぬほど笑った。そして藤井P関連の番組ではもうあるあるになりかけている監禁で、また鉄塔システムの流れを取り入れつつ電話をかけていく企画自体の構造にこだわりの深さと執念すら感じた。

そしてキラーコンテンツモンスターハウス最終回」。実際、普段テレビを観ないような人までモンスターハウスを知っていて驚いたりした。視聴率と話題性が全く釣り合っていないコンテンツの象徴なんじゃないか。「おっさんずラブ」も流行語大賞とかにノミネートされるのに視聴率は芳しくなかったと聞くし、最近は視聴率とは…という次元に入っているなあ。

印象的なクロちゃんの「変わった」ように見える部分と「変わらない」内面。あれを悲鳴とかで済まさないでほしいと思ってしまうのはアレかな。好きとか変わりたいって気持ちには嘘はないんだけど、そのあとの全行程をぐちゃぐちゃっと嘘で塗り固めてしまうというか。とてつもなく不器用な人間のドキュメントとして観てしまうから、ただ単にキモいとかそういうのはうーん、と思ってしまう。まあ指輪の使い回しとか超ドン引きしたし、「バカっぽい」とか撮られているのを知った上で陰で言ったり、グラス舐めるのはやっぱりマジで気持ち悪いけど。

最後のdボタン投票からクロちゃん投獄までの生放送は、突然ザ・バラエティなノリになって驚いた。22時間47分45秒という異様な数字に笑いつつ見世物っていうのがどうなんだとは思っていたけど、まさかあんなことになるとは。

番組終了までクロちゃんは「クロちゃん」を徹していて、私はテレビで見ていることだけが真実だとは思っていないから、藤井Pのインスタライブで談笑を交わす様子もなんら違和感はなかったけど。けど、それが分らない人やヤバい人が取り憑かれたようにクロちゃんを観に走る配信をみて絶句してしまった。クロちゃんは(本当のクズではあるけど)ピエロにすぎなくて、真のモンスターは視聴者じゃん的な衝撃映像だった。「来て数百人」を想定していたスタッフたちがたてた柵が、見事に破壊されるまでの映像は一度見ただけでも相当脳に焼き付いてる。マジドキュメント。人間ってあんな風になってしまうんだと思った。厚木とか鉄塔みたいに企画した側じゃなくて、今回はdボタン投票があったおかげで全て視聴者の問題じゃないか。有吉も言っていたけど、売れる事は馬鹿に見つかること的な、DQNみたいなのがYouTubeで見て笑うような番組にもなっているんだなとずっと思っていたけど確信となった。視聴率は決して高くない、というのがまさに物語ってる。

スタッフ側の読み切れなかった部分もあるのだろうけど、全てが重なって衝撃的なラストになっていたモンスターハウス。誰もいない檻を撮影し続ける人間たちがモンスター。クロちゃんはマシだよ。とにかくテレビ界に新たな1ページを刻んだことには違いない。なにはどうあれ水ダウは目が離せないことにも変わらないな。

まさにモラトリアム

私はすぐ情緒が不安定になってしまう。どうすればいいのだろう。

将来の不安や、突然できなくなってしまった事、人間関係、ありとあらゆるモノに対しての負を抱えこんでいる。そして、重荷を抱えている人は私だけでは無いしその重荷自体、自分が今までして来なかった努力のせいだと決めつけてしまい立ち込める嫌な空気が濃度を増す。

人の事をあまり疑わない性格が故に、色んな「瞬間」の自分の行為や人の言動を信じ込んでしまい、結局何が自分にとって正しかったのかわからなくなる事が多い。

今日はとびきり嫌なことと辛いことがあって、また100パーセント何かのせいとかじゃなく自分のしてきた事が積み重なったモノで、それはそれは悲しい。なにかに躓いた時、いつも自分は何もできない人間だ、と思って負を負で封じ込めてしまうのが私の癖だ。そんなこと無いよ、とかそういうことが言われたいんじゃないけど誰かに全てをぶちまけては無責任な涙を流す。最悪だな。どうしようもないくらい悲しい気持ちに今日はなっている。

側から見たら私はそれなりに上手くいっていて、小さなコミュニティの中では目立つ部類なのだと自覚している。それはまさに虚栄心と見せ方のうまさだけで成り立っていて、虚構にすぎないなと常に思っている。

前向きになりたい。努力をしたい。私の努力の受け皿は余っているのに、私の内側にある粘着質な負が妨げてしまっている。何をするにもベタベタした負が纏わり付いて、立っているだけでも不安になることがある。誰かの笑い声がしたら自分の事を蔑んで笑っているのではないかとすら思う。ここまで負が、そして自分にとっての現状の劣悪さ加減が膨れ上がった理由がわからない。

嫌な考えを捨てたい。うまくいかない事だらけで笑えない事だらけだけど、出来ていなくともニコニコしようと頑張る自分を、まずは包み込もう。ずっと心のつま先が冷え切って血流が悪いような気待ち。そんな時は温かいココアやカモミールを飲んでベタベタを流し込んでしまおう。努力は安定から始まる気がする。今は安定を目指そう。無理は適度にして、悲しい気持ちは押さえ込まなくていいんだ。どうにかまっすぐの視点を持っていられるように、今は立ち止まっているだけなんだよね。

悲しい気持ち、小さなことで膨れ上がるくだらない思春期、常にある不安、現実とのギャップ、まさにモラトリアムだな。