塩麹とはなぢ

身の回りの小さきを愛す

きづきのれっきょ

言葉にできない時間を信頼したことが人生で一度もなかったときづく。

生育環境がたとえテクスチャとして恵まれようが、内実の本音なんてだれにも測れようがない。わたしは世間体とじぶんの気持ちの間を揺らぎ、揺らいではじぶんの気持ちの全てを否定し隠していた。

そうしていると、何か嫌なことが起きても無理に整合性をつかせることはできた。だがそれだけだ。幸せと喜びも楽しさも、いっときだけ信じてみて、誰かの意思によって踏みにじらることが怖くて否定するしかなかった。そもそも何か(大抵は自分自身)を否定しないと、じぶんの存在が危ぶまれるような気がしていた。最初から信じたいものほど疑って、予防線を貼って傷つかないようにしていた。レリーフのようなもので、外側から頑なに自分の信条を否定することで、自分の信条を形成するみたいな。入り組み拗れた感情を正当として、メチャクチャな糸に絡まったまま進んでいる感覚。否定する行為でじゅうぶんに傷ついてしまうことには、気づかないふりをしていた。

誰かと海を眺めるとき、誰かと散歩をするとき、誰かの繊細な心の変化を垣間見るとき。

むしろ否定しないと、ずっと怖い。幸せな時間じたいに裏切られることが怖い。好きな人たちに裏切られることが怖い。信用していたい誰かが、親の気まぐれみたいにわたしを攻撃して、わたしの心をめちゃくちゃにしたり、それを愛情と信じて疑わないのじゃないかって怯え続けることがつらい。だからいっそのこと最初から否定して、卑屈な感情を振り切らせて表層の正常な感覚を得ていた。

最近思うのだ。いろんな人と出会って、いろんな人の思考の片鱗を覗く。なんて美しいんだろう。その変光する煌めきにわたしは永遠を感じる。なんかよくわかんないけど 永遠だなと思う。不変の、沸騰石みたいな、変質しなくてでも作用をする。なんかいいなって思う。ぐすぐずの解釈だがそう思う。わたしの湧き立つ、重くてネガティブな沸騰が収まる感覚になる。他人の考えてることを知ることは美しい行いだ。

そうしていると、人のことをこんなにも疑ってる意味もないなと気づいたのだ。だれもわたしに危害を加えないのだ。いろんなひとの思考をみていて、信じていいんだと思った。じぶんが見てる側面は100%じゃないから、例えば見えてない0.0000001%の面はわたしのことを攻撃して陥れたいとか思ってるんじゃないかと考えてたけど、そんなことない。な訳ないのだと思えるようになった。長く一緒にいる友人のこと、ほんとうに信じたの、ここ最近になってからなんだ。

人のことをほんとうに信じてみると見えてくる側面と、見えてくる信用がある。他人が変わったのだといまのいままで思ってたけど、じぶんが変わっただけなんだな。変化をすることは、少しえずくみたいな、なんか気分悪くなることだと思ってたけど。それでも、安心できることの温かさはこんなにいいものなのか。誰かを信じることはリスキーかもしれないけど、損得を考えてひとに接していたじぶんはとっても不誠実だったなと思う。少なくとも全ての人間に適応することがないとは言っておくけれど、わたしが心配性なだけの補足だけれど。

わたしはひとのことが好きで、ひとの感情の発現に喜びを感じて、ひとと出会えていることがなによりも幸せなのに。感情を否定して事実を見ないフェーズはもう抜けよう。一抹の幸せも、今だけのこの感情も、全部事実なのだから、真実よりも確証があって、証拠があって根拠があるから。人を信じることは、初めて自分を信じることなのだ。

かたちにのこす

 

かたちにのこす

 

私が私である以上、いきている形を残す 後悔も後悔も 悲しみも苦しみも ありのままに残す 残す

 

 

私が私である以上、いきている眼差しをを残す

 

残す

 

 

自分の愚かしさを見つめて 気づく 傷つく 築き上げたものをゼロにして ゼロの風景の美しさに気づく バカみたいな昨日は忘れて 前だけをむく 藻塩を揉んで 気を揉むことをなくして 私は前をむく ほんとうに恥ずかしい ダサい バカだ 声がこびりつく でもわたしは生きるしかなくて 表現でのこす 意図に絡めとられた心を取り戻す 意図なんか気にしなくて良い いい 脳がぼうっとしていて 脳の近くにある小さなニセモノの脳が応答をする ニセモノの脳が答える かなしい わたしが亡霊のように存在していて ニセモノがほんとして生きている

自分を殺そう いい意味で いい意味で いままでの自分を刺し殺す こわい いたい つらい そんなことすっとばして 今の自分の返り血に生きることの難しさを抱いて いだいて いだいて  痛い 痛い 痛い でもわたしは ずうっと前に居たい わたしは一番でいたい 相対評価でなくて わたしが一番だと思える私でいたい 少なくとも社会に認められたいし 生きている証を誰かの脳に住まわせたい わたしは大きくなりたい 相対評価でなくて わたしが良いと思える刹那が欲しい

 

わたしは前をむくしかない 剥くみたいに 自分の皮を剥ぎ取って捨てる 焼いたり手で弄ってみたり そんなことはしないで 捨てる 捨てて 新しい弱い皮膚の痛みに敏感でいる いるしかない いるしかないのだ

雌滝

文章を書ける、と思う気持ちが消えた。

何度も打っては消している。寺山修司の『海に霧』に感銘を受けたこと、幼稚園の頃に捨てた絵のこと、たくさん脳には書けそうなことがあって今しか文章に残せないと思うのに、どうにもできない。頭に浮かんだものを丸く形にしようと試みても、心が分裂している感じがして刺々しい隔たりが胸を突き刺す。何もできない。

ひどい無力感と虚脱に苦しんでいる。いや、本当に苦しんでいるのか? 私の口先だけで走る文字が、現実から逃れる為に疾走してるみたいで気分が悪い。嘘 という車輪が、事実から逃げるために廻る周る。まわったさきには湖があって、最高速度の自転からブレーキをかけられずに沈む 鎮む。 塩分を感知した最期 記憶は僅かな塩水でおわる終わるおわる畢る。

街を歩く 人と話す 靴を脱ぐ 何から何までが、現時点のわたしの毒として巡る過去になる。 理由がわからない。理由のわからない不安がわたしを支配し、指揮して心を弱くよわくさせる。病理的なこの感情を理解されたいとも、心配されたいとも思わない。ただ闇雲に、自分を救う可能性をここに託しているだけ。

しているだけ。郭公は托卵をする。気前のいい鳥の卵を蹴落として、自分の卵を置いて、育ててもらう。

生物の合理的なイカサマに、わたしは非合理的な感情を抱く。生きることを合理化させること、そこに付随する無駄なもの、わたしは無駄だけでできている かなしい。自分自身は無駄な存在だ…みたいなナルシシスティックな話をしたいのでない。わたしを構成するものは、感情の熱と熱のはざまから出来ていて、そのエネルギーに身すら燃やされてしまったみたいな みたいなそんな気持ち、理知がまるでない、ずっと燃えていて萌ゆる感性すらいまは燃焼されているみたいな、 感覚 間隔をあけて居ないと火が移るみたいな、 でも 他者としてならその姿を 見たいな、みたいな。

わたしは非合理的な人間だ。郭公のように冷淡を冷淡と捉えない覚悟もなければ、落ち込むことを辞めようと割り切る元気もない。なにもない。心は常に津波が起きて、たくさんのわたしが死んで、たくさんのわたしが傷ついて、たくさんの感情が二次災害を起こす。虹がみえたらいいのにな。虹さえあればいいのに。心の間隙を埋めるものがない。本や映画をいま、どうにかして取り入れているけれど、埋まらない。虹、二次対策…二時、二児 滲んだインクが馬鹿らしい 馴染んだとでも思ったか 馬鹿らしい バカみたいだ 馬や鹿のように、どこか遠くを駆け巡れたらいいのにな いいのにな

つまらない睫毛が固まっている 積み重なる心の重りに罪が重なっている     街を闊歩して何かに愛を注ぎ 百歩も譲らず 前を向きたい 無機 対 わたし。

n街にて 

飼い主を待つ柴犬に勝手に心を重ね、撫でようとしたら噛まれそうになった。なんだこの犬はと、恥を紛らわすかのように罵りの意を抱いたけれど、噛みつこうとするところまで自分と重なった。唸ったのちにフセをして、歩ける時を待ち続ける毛並みが、わたしの憂鬱の流れにそっくりだった。

よろめいた時に差し出される手を、いつでもわたしは弾いてしまう。近しいものには啖呵と共に、友人ならば諧謔を交えて攘う。勝手に一人になって、勝手に傷ついて勝手に苦しんでいる。ほんとにコスパの悪い人間だ。誰かの苦しみには敏感で居てしまうし、むしろ本人よりも傷つくことの方が多い。普段はそういうところをゴッテゴテのオブラートに包んで、もしくは甘ったるいアイシングのように覆い隠して、角の取れた人間で居る。心がダメなせいで交換できていない花瓶の水みたく、ドロドロと在る。

犬に噛まれそうになってからは凹んで歩いていた。やはり恥ずかしい。勝手に自分と重ねて噛まれかけているところを思い返すだけで、心に鎮が増える。同時に小学生の理科の実験を思い出した。分銅は見た目のわりにずしりと重くて、出来事と心のダメージの図と同じだなと汚い商店街を進みながら想う。

うえに書いたけれど、心がダメなのでまるで花の水換えができない。花を見ても、枯れていく様を見ていてもどうにも体が動かない。花も花瓶も好きなのに、どうにも苦しい。それゆえ、今日は花屋に通りかかっても絶対に買ってはいけないと決意して外出した。誤った考えだとはわかっているけれど、自分と関わった者が皆不幸になっていくマズい観念がわたしを支配している。マジでそれは違うとわかっているものの、意識と無意識は全くの別物だ。共通項がない上に理解しあえない。わたしはその乖離に苦しんでいる。だからこそ、買った花を全て不幸にしてしまうように心から思っていた。わたしは固く買わぬと決意をして、気怠い足首を前に進めていた。

最寄りではないn街に赴いているからこそ、閉塞的な空気に流される。老人同士がわたしの持つ元気の500倍で会話しているし、ヤバい奴が駅前でキムチを売っている。そんな感じなので別に嫌いになる程の情もないし、もちろん好きでもない。

花屋に差し掛かった。ここはとても安いなと前から思っていた。よく行くa街は、スッゲーお高く止まってるので平気で900円とかを叩き出す。それに違和感を覚えていたからこそ、n街の超良心価格には好感が持てた。入った。入るんだ、と自分で思いながら入った。

老人同士の密なコミュニティで出来上がっているようなn街の住民は、わたしが入店しても完全に会話に夢中だった。小さくてほぼクローンみたいなおばちゃんたちが、ガヤガヤと、ガヤガヤというオノマトペが最も似合う形で話していた。

でも、それくらいがいまのわたしにはちょうどよかった。

アルストロメリアを眺めていると、会話を唐突に辞めて一番状態がいいものを持ってきてくれた。とても嬉しかった。淡くて大きくて、蕾がたくさんあるものをわざわざカウンターの奥から引っ張り出してくれた。うるさいおばちゃんたちは厄介者に扱われることの方が多いが、その生命力と迸る前向きさに、わたしは幸福を犇と感じた。

妙にクシャクシャとした喋り方で、花の手入れの仕方や、他に似合う花を教えてくれる。やはり幸福だと思った。

話したことのない者と話す、だいたいは武装した心で"扱いやすい人"で居る。でも、この時はありのままであれた。彼女らは小さなピクセルの感情なぞ気にせずに、でっかく粗く生きている、身長は小さいくせに。だからこそ、わたしは本当に居心地が良かった。会計も慌ただしく、せわしなくするおばちゃんたちをみていると心からクスリと笑みが溢れる。ハムスターみたいだ。かわいい。煩う多くのことを考えないで済む時間だった。そして、店を出た後も幸せだと思えた。

商店街を歩いていた時、花屋に入るまではずっと死にたかった。別にわたしはリストカットもしてないし自殺願望もない。ただただ、無意識が死にたいと思うのだ。重なった不幸を繊細な感受が大きく捉えすぎて、ただただ死にたいと思う日々である。わたしには芸術があるのだし、制作をすることは何よりも楽しくて刺激的なのに、生活はまるで息苦しい。そういう時期なんだろうと割り切っているけれど、動かない体に、積み重なるやらなければならないことが心を締め付ける。他人のことを、信じたくても信じられない心がバカバカしくて、生き恥だなと思いながらトボトボと歩いていた。だからこそ、傍若無人な彼女たちに、わたしの心の花瓶の水換えをしてもらったみたいだと素直な喜びが体内に巡っていた。

気まぐれな出会いは、わたしの煮える病の綻びを握ってくれた。温かな、恥ずかしいくらいの体温で寄り添ってくれる。家に帰って水換えをした。4日ぶりくらいだ。花には申し訳ない気持ちでいっぱいだけれど、ぬめりをとって、透明な水に入れてあげられたときも心が健やかになれた。

 

淡くて悠なる花を眺る。昨日の苦しみを、明日の苦しみを邂逅の瞬きで無くしてしまえるように、手を退け唸る犬のような心の刺を抜きながら、わたしは生きる。生きるんだ。

 

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シナプスを恨む

調理実習が大嫌いだった。

何もできないのは自明なのだが、蓄積された小賢しさにより「やってる風」はうまいので、メチャクチャ丹精込めて(る風に)皿洗いをしたり、大根おろしはおろしすぎるまで自分の仕事にしていた。かなりスローな行動で時間を稼いでいたが、丹精感が強いおかげで誰にも何も言われなかった。

実習中に私ができることは洗う・おろすの二つであるがゆえ、それらの仕事が終わった瞬間に地獄が待ち受けている。

普段から、教室に物が落ちていたら率先して拾ったり、隣の席に座るあまり仲良くないし結構イケすかないし、ていうか割と最悪な記憶のある同級生が居たとして、そいつがペンを落としても率先して拾い渡すような器の大きさを、神に誇示していたのに。なぜ神はこんなに容易く地獄を提供するのだろう。旧約聖書かってツッコんだ。心の中で。うそです。今思いました。まあそれにしても、日常に地獄は潜みすぎている。ポケモンで言えば、地獄はコラッタくらいの頻度で出てくる。雑魚が。ラッタになったところで、お前は一生パーティーに入れないのにな。

地獄、つまりおろしも洗いもなくなった調理過程に、わたしは砂糖を量る係になってしまった。

ぽつねん、という言葉はこういう時の為なのだろう。広い調理室の中、誰の姿も見えない。私がひとり、白紙の脳をつかって班員の分のさじ量を計算せねばならない。ぐつぐつと煮えたぎる、一度入れたら取り返しのつかない地獄の釜にぶち込むところまでが役目。無理だ。責任が重すぎる。

運の悪いことに、人数調整の関係でほとんどは5人班なのに私たちの班は4人班であった。まわりに配合を聞いても、人数が違う為に話にならない。焦る。しかもなんか圧をかけてくるヤバめの奴と同じ班である。終焉。

そしてテンパった末、砂糖と塩を間違えるというウルトラハイパーベタすぎだし最悪な失態を犯した。泣いた。マジで。地獄みたいた空気になった。しかも何もできないのに、皿洗いも奪われた。己だけで済んでいた地獄が拡大した。共有する地獄はつらいな。

狼狽という言葉は、きっとこの時の私のためにつくったのだろう。先人よありがとう。どうすればいいか分からなくて、シンクに歪む自分の泣き顔を見た。熱気に紛れて、力強く滴る涙が情けなかった。甘すぎる地獄の釜の中身を想像して、塩気が強すぎる涙を飲んだ。

そのあと普通に先生が助けてくれて、普通の食べ物になった。何をつくったかは覚えていない。

あんまり美味しくなかった。ていうか味がしなかった。でも、あの時間をかき消すかのようにおいしい!!いろいろあったけどおいしいね!!と言いながら食べた。胸に通る温かい液体が、涙の分泌を促していた。シナプスを恨んだ。

S(壮大な)J(時間を)K(拵える)

久しぶりに書いてみる。

冷たすぎる爪先をヨレヨレの布団に押し込みつつ、将来の不安や目先の出来事に板挟みされている。あと一年もすれば大学受験。完璧な不安材料である。

というか、大学受験と改めて文字にすると、普段意識していなかった自分の"高校生さ加減"を実感してしまう。忘れがちだが、なんたってわたしはSJK。笑ってしまう。セカンド女子高生なのだ。

 

爪先がだんだん温くなってきた。

今年はまさにターニングなポイントが多く、自分の進路を大きく変えうる出来事さえあった。クリエイティブな世界へ、なかでも全方位的な面白さを求める世界を覗き見したことで、自分の感性や度胸が試される時がなかなか多かった。ホンモノに触れる機会はそうそうない。ホンモノなひとたちに出会えてよかった。

そしてなにかをつくることはマッジで大変なことなのだと痛感しまくった。時に自分をはちゃめちゃにしながらも、やり遂げることに意味があるのだとわかった一年でもあった。

 

完璧に血が通った。爪先に生命を感じる。つまり、わたしは長いこと布団に足を預けているんだな。おい受験生だろうがよ。お前は高校三年生の0学期だろうがよ。はあ。

こんな感じで、いろんな人に言われた色んなことが私のアタマを支配し完全に統治する。

それはつまり、性格の悪そうな腹の出た王様が、わたしの脳内で指示をたくさん出しているみたいなこと。色んな人に言われた、将来に関するコワい助言、傷ついた助言、蜂蜜みたいな助言、その全てを意地の悪そうな直属の部下に伝えてるみたいな、なんとも嫌な妄想がわたしの身体を乗っとる。噛み尽くしたガムのように、もしくは牛みたいに、ペチャクチャと言葉を形骸的な存在に成して反芻する。恐ろしい。

 

イメージにボコボコにされる。そんなイメージがすごい。

 

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そういえば、わたしの毎日見ているlike a ドブじゃない、美しい海をしかと見たのも今年だったな。

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あとムッチャ可愛い鞄をプレゼントしてもらったのも今年だ。

 

割となんでも悲観的に捉えてしまうが、短い人生の中で一番実り多く、甘く苦く美味しい一年であった気がする。これから待ち受ける現実とか、私の見えない未来はきっと自分でしか切り開かないのだと、今更、ホント今更ありふれた言葉が自分の中に宿る。

 

来年は焦燥に駆られながら、実務的には短いだろうが体感は長くて、それはそれは壮大に感じる一年になるだろう。そんな時間を無碍に扱わず、自ら拵える気持ちで進みたいな、進まねば。

 

 

そういえば、ずっと悩んでた鼻血、メチャメチャな鼻炎のせいだった。初めて耳鼻科に行って、信じられないくらい荒れた鼻腔をみて笑っちゃったよ。それを知っただけでもマジ実り。鼻血嫌い、鼻詰まり嫌い。

鼻血放ち

ちょうどコレを書き始めたのは去年の今頃、ちょうど鼻血がで始めた頃、ちょうど一年前。

でも最近は余裕がなく日記をかけない日が続いてた。

 

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ずっと現像していなかった写ルンですは宝箱のようで、撮った覚えもない素敵な写真がたくさんあった。ソフトクリーム、多分食べてない気がするし。

フィルムの写真は感情がザラザラと表面についてるみたいで好きだ。ヨーグルトについてくる砂糖みたいに耽美的でもあれば金縛りのように見えない手で心臓を掴まれるような感覚に陥ることだってある。写真が写真以上の何かになる瞬間は蕩けるみたいに心が凍る。アルバムに入ったチェキを眺める時、データフォルダを見返す時、いつも相反するイメージを孕んだその気持ちが溢れ出る。

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そういえばメリーゴーランド乗ったんだったな。遅すぎて全然楽しくないことが愉快だった。

嗚呼、もう春だ。新学期です。増した未来への責任が重すぎる。明日から頑張らなきゃ。いや「頑張らなきゃ」はダメだな。

「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎて自己否定に苛まれていた時、あんなひょうきんな友人が頑張らなくていいんだよ、と言ってくれたことがあったな。とっても嬉しかった。春はそんな程度でいいんだよね。いま一瞬でもそう思えるならそれは素晴らしい事。信じよう、ひょうきんなあの子も自分の今も。

今日も鼻血は出た、風呂に入っている時に出た。なかなか手慣れたもので慌てもしなくなりました。一年は長くて短くて長い。今年を大切に生きたい。忘れたくないことを忘れないために、自分のしたい事を揺るがさないために、ね。