塩麹とはなぢ

身の回りの小さきを愛す

MASKMENを観て

MASKMENが終わった。終わってしまった。なんだこれ。格好良かったなあ。

まずオープニングのマンウィズとスカパラのコラボした楽曲「Freak It! 」がアガる。斎藤工の格好良さを簡潔に説明してる感じ。

普段ドラマをほとんど観ない自分が久しぶりに一話から観た。くっきーと斎藤工、想像つかないけど絶対に合うじゃん!そう思って毎週録画を「決定」したあの日が懐かしい。マジ面白かった。大正解。

人印になる事を決意した日、苦悩に振り回されていた日々、フェイス・ザ・チャンスになった日、ベンジャミン・ボーナスの執事になった日、全て斎藤工の「顔」が違う。それこそ変面。生き方が俳優だと思った。普段から相当素敵な彼が一番格好良かったのは執事の時。良い顔をしていた。一番面白かった。一番いきいきしていた。

わかりづらい人印、わかりやすいけれど笑いどころの少ないフェイス・ザ・チャンス、そして最後の集大成、くっきーが関わっているネタにしては可愛いらしいな、と思わせたところにアイアンメイデン。さすがです。いつでも期待を裏切らない。バタフライナイフまで活用してくるあたり、人印の精神も受け継いでいる。

時にはエンディングを歌う本物のToshlに芸人として出てもらったりして、予測不可能な展開ばかりのドラマだった。スイーツを頬張るToshl、そこにはアンビバレントな面白さが集約されていた。そのエンディング「マスカレイド」も素晴らしい。荘厳。決意を持って行動を起こす者の孤独も武者震いも全て包み込んでくれるようだ。アガるオープニングに包み込むエンディング。最高だ。

「ドキュメンタリードラマ」という曖昧な位置にある事によって、マスクを受け取る各国の子供たちや手塚とおるのシーンもすんなり入る。賢い番組だこりゃ。

こんなドラマを観たことはない。これから先なかなか観られない気がする。演者も番組も挑戦し続けていてその姿が勇ましかった。格好良かった。最後に斎藤工が「マスカレイド」を歌う演出にグッときた。テレ東すげーな。本当に面白かったドラマだった。

夢うつつ

朝、起きる。無駄な不快感と共に、頭が枕と真反対の位置にあると気づく。

小さい頃寝相がヤバかった。ベッドで寝ていると落ちる事の方が多かった。それでもだんだん改善してきたように思えたのだが、久しぶりの真反対寝相。私は昨夜の間、どうやって真反対にシフトチェンジしたのだろう。その瞬間が見たい。

昨日は家に眠っていた最古のテレビブロスに読み入っていた。そこまでの記憶しかない。目を閉じたタイミングを全く覚えていない。えー。不可解。ある人は、真反対になる寝相は、寝ている本人がむくっと起き上がって枕から反対側にまた寝るからだ、と言っていた。そうだったらなぜ私はあんなにいい感じに布団を纏っていたのだろう。

夢うつつでも、我々はきっと恐ろしいくらい冷静な意識を持っているのだ。もしかしたら、日常なんかよりもうつつすぎる自分が出てくるのかもしれない。夢ってまだわからない事も多いらしい。すごいな、もう精神世界だなこれ。科学で証明出来るそういうヤツって夢だけなのかな、すごい。興味深い。

とりあえず愛おしい休日を存分に抱きしめて、うつつすぎる自分を探りながらまた最古のテレビブロスを読む。あー幸せだな今。

カラオケ恐怖症のデスボイス

カラオケが怖い。今日、友人二人が大声でその美声を披露していたが、私には学生ノリで普段から歌を歌える事にも驚きが隠せない。

未だにカラオケが好きな人種が本当に存在するのか疑ってしまう。大半を占めるのはカラオケ好きな人間だという事が、マジで信じられない。人間のほとんどがカラオケは苦手だけどいかなきゃいけない娯楽として行っているものだと思っていた。実際にはみんな本当に歌う事が好きらしい。怖。

拗らせた自意識がグズグズ言うせいで、誰も大して自分の歌声に興味は無いのに無駄に緊張する。歌い切るまでに恥が身体中の汗腺から出てきそうになる。一生マイクが回ってくるなと思う。仮に私が歌うとしても、みんなトイレに行って欲しい。タンバリンやマラカスを持って無理に盛り上げないで欲しい。歌いたがらない事にも気を遣わないで欲しい。

なんて自分はワガママなのだろう。でも、薄暗い中に派手な明かり、陽気な密室、襲ってくる楽曲たち、まるで生き地獄だ。派手めの地獄。盛り上げる道具もたちまち派手な拷問道具に変わる。やめてくれ。原宿の地獄ならまだわかるけれど、各所にそんな地獄を置かないでくれ。

嫌すぎて涙を流そうものならめちゃくちゃ変な空気になる。必死に隠すけれど、泣いてまで行くような所じゃない。そんなつもりでカラオケの創始者は立ち上げた訳じゃない。だのに、何故だ。マジで苦手。マジで。決して音楽が嫌いなのでない。むしろ好き、大好き。こんなにカラオケが苦手で苦痛で、心が逃げ出したく思うのは何故なんだ。永遠の謎。

同士の叫びは検索をすれば出てくる。ザクザク出てくる。安心する、共に戦いたくなる。だから私も叫ぼうと思った。マイク越しでは叫べないけれど、文面ならデスボイスだ。それになんだって言える。カラオケに対する恐怖、開けない心、全てデスなメタルに乗せている。強いぞ今。なんか強い気がしてきた。カラオケが怖いだけの小さな人間だけど、叫んでいる。

誰か、誰でもいい、私のこの恐怖を受け取って欲しい。それで少しでも安心して欲しい。同士です。のたうちまわって逃げ出したくなっても、共に戦いましょう。

アルカリ金属でもいい

学生という側面、妹という側面、ココに書いている側面、私はどんな立体図形になれるのだろう。思いつく限り大きい側面はこれくらいしかないけれど、誰かから見たらもっとあるものなのだろうか。もっと面の多い図形なのだろうか。

誰かに知って欲しい。誰かに読んで欲しい。誰かに聞いて欲しい。こんなに「欲しい」ばかりだけれど仕方ない。誰かに見てもらえるだけで心は満たされる。承認欲求とは違うと思いたい。

好きなものに囲まれてあたたかい部屋に居られる事は幸せだ。でもなんだか満たされない。自分の思っている事を吐き続けないとどうにかなってしまいそうだ。「あの人は〜」とかまた自分と比べて、自分を突き放しそうになる。それも何度も。

不安定な私はいつ安定するかも爆発するかもわからない。お前はアルカリ金属なのか。恐ろしい。おっかない。それに常に綱渡りで、平らなハイキングコースではなく険しい山道ばかりを選んでしまう。

でもある人にそれでいいんだ、と言われた。不安定で険しい道ばかり選んでアルカリ金属みたいな私で。嬉しいとかじゃなかった、その一言が聞きたかったのかもしれない。ふう、と心が休憩室に入って安らいでいるようだった。私の側面はザラザラで手触りが悪いけれど、その側面が何枚あるかすら知らないけれど、それでいいんだ。やっぱりバカボンは天才だな。それでいいのだ、そう。天才。この一言で心が楽になる。

どこかの湖のほとりを歩きたいくらいに脳がアレだったけれど、もうそんなことない。何か吐き出すと楽になる。それでいいんだ。誰かが毎日これを見ていると思うだけで心が安らぐ。それでいい。

真面目に「AD」

真面目と言われても。真面目ってなんだまず。真面目な部分が見られないように日々生きているのに。ていうかそれは普通じゃないのか。

真面目って言葉、マジで好きじゃない。「真面目だね」は、それ以外の評価を飲み込んでしまう程のヤツ。なのにちょっと負すら感じる「褒め言葉」である。おかしい。

藤井健太郎さんの著書で、ADは100点を取れるがDは100点を取れたと思ったら終わり、という事を仰っていた。雷に撃たれた気持ちになった。とても良い言葉だと思った。

私は今ある委員でAD側にいる。だから、100点を取り続けられるように努力している。D側の人間の求めている事を考えて、求められた事以上をしたい。私はかなり楽しんで「AD」をやっている。なのに、皆は嫌な仕事に思えるようで、また「真面目だね」。うるせー。うるせーよ。楽しんでんだよ。

私自身馴染めてない訳でも、浮いてるとかそんな事もない。むしろ溶け込んで自分色を出せているから、変なヤツにとりあえず言う「真面目だね」とは、違う。

人の嫌な仕事を楽しむ素ぶりを見せないようにしていても、滲み出てしまうのなら、それでいいのかなあ。だって真面目なことも楽しんでいることも見せたくて見せてる訳じゃない。恥ずかしいし。ただ、周りに合わせつつ自分のしたい事をするのはとても大変なことで、いつも心をすり減らしている。

ダサい街へまた行くけれど、今日は自分のしたい事が出来ればいいな。そんな事をダサい街までの道のりで思った、思えた。

さっぱりしたい

さっぱりした人間になりたい。人に深入りしようとせずに適度な距離感を持って、自分が良いと思った事を出来る人になりたい。

さっぱりした人は自分と正反対なのだ。私は人の気持ちを無駄に考えては要らぬ心配をして、取り越し苦労ばかりしている。他人の心配をし続けたせいで、最後は自分がいっぱいいっぱいになってしまう。毎度のことである。大馬鹿者だ。

また天気の不安定な日に、黒いアレな服を着てダサい街まで足を運び、疲れ果てて帰路につく。今日を共に過ごした、さっぱりした人たちの事を思うと自分の未熟さを痛感する。突きつけられるようだ。彼女たちは私がこんな事で悩んでいるとは思わないだろう。適度な距離で接してくれる事がとても嬉しいが、同時に自分の油汚れみたいな性格に嫌気がして泣きそうになる。

きっと、あの人たちも何かに悩んで苦しんで生きている。ただ私はそこに到達するまでにクヨクヨクヨクヨしている、恥ずかしい。それはそれで私なのだ、そう言いきれる潔さがあれば良いのに。

中身はこんなんだけれど、これからは口だけでも潔くいたい。きっと中身も追いついてくれるから。どうにか、さっぱりしたい。

 

 

 

 

ロマンと風の街、ドブと暴風の街

その観光地はダサくて好きじゃない。客も街もダサい。

でも、頑張って南国に寄せている姿がちょっとかわいい。確実に日本なのに、南国ぶっている。ドブレベルに汚い大海を、ハワイの美しいビーチに見立てるその日本人すぎる精神がかわいい。日本庭園をなかなか行けない名所に見立てて想像力で誤魔化す感じ、平安時代から我々は変わっていないようだ。

怒りをぶつけるように、訪れる者に風は吹き荒れる。大して街も掴み所がないから、客は無理やり楽しんでいるようにすら見える。

ただ何故かこのドブと暴風の街を思い浮かべると、はっぴいえんどの『風をあつめて』が心に流れる。あんなに美しい世界でもなければ、休日の少しドキドキするような余裕がある場所でもない。発展途上なだけである。

でもドブだし荒々しい風が吹いているけれど、変わろうとしている所に寂しさと共に高揚感を感じる、少し。これがロマンなのかなあ。この街の未来がどうなるかワクワクもしているけれど、ずっとハワイ崩れでいても欲しい。

変わろうとしすぎる街に、変わらずに暴風に挑んで、変わらずに見立てて楽しんでいる客を面白がっていたい。それで私も風をあつめて、本当に集められたら暴風具合を減らしたいなあ。