満たす『百円の恋』
観てしまった。『百円の恋』を観てしまった。とにかくアホみたいに泣いた。
初めて『百円の恋』を観たのはDVDだった。冒頭部分を集中して観ていなかった事をめちゃくちゃに後悔した。
そしてやっと、今日、劇場で観られたのだ。前に行った事のあるミニシアターは怖めだったが、今回は思ったよりもすんなり入れた。安心。やっぱりテレビで観るよりも足を運んで観る方が、断然良いと感じた。
当たり前のことを言うけれど、すごい映画ですこれ。満たされる。給油される車ってこんな気持ちなのだろう。車の気持ち、超わかる。
終わらないでくれと思いながら観ていた。ずっとこの時間が続けばいいのに、と思っていた。もう言葉にできないガーーーッとしたヤツがたくさんあるけれど、何を言ってもしっくりこない。伝えたいのに出てこない。変に安い言葉で書くのは野暮だ。
実は最終日に、今度は『私たちのハァハァ』とともに、また『百円の恋』を観ようと思っています。ハァハァは観られていないから楽しみだな。
次はもっとこの胸の内にあるヤツを丁寧に取り出したいと思ってる、こんな荒々しい感じじゃなく。それに『百円の恋』に関しては3回目になるし、また別角度で何か発見できるだろう、楽しみ。
とにかく楽しみ。あー幸せ。こんな素敵な映画を今日観れた事、幸せ。あー幸せ。あー。
義務でめくる図鑑を突き放す
小さい頃から絶やさず何か趣味を持っている。小学校低学年の頃は昆虫と恐竜が好きだった。だがそのイメージがつきすぎて、「好きである人」でいるのがしんどくなってしまった。
最初は心から好きだったのに、途中から周りからのイメージの「好きである人」を保つために、心が無いまま図鑑をめくることが増えていったのである。完全に義務としか思えなかった。あんなに好きだったのに、そう思ってしまうのも、誰かに思われるのも嫌で、心を捨てて好きを演じることに徹していた。
いつ頃だったのだろう、ある時急に恐竜と昆虫に興味がなくなったと言い切ることができた。それから、本当に好きなモノとどうでもいいモノを見極められるようになった気がする。
今は読書や映画、なによりテレビと音楽が好きだ。これは多分一生変わらない気がする。好きな趣味の中には、もちろんどうでもいい奴のどうでもいい作品とかもある。ただ、それまで愛さなくていいという事に恐竜と昆虫を突き放してから気づいた。義務じゃない。義務な訳がない。なんてハッピー。
今は私が「音楽好きな人」、「テレビ好きな人」なんて思われても全然負担に思わない。そう思われるのはちょっと恥ずかしいし、別に思って欲しい訳じゃないけれど。
自分の中の線引きを明確にすると人の意見なんてどうでも良くなるのだ。ただ好きなんだそれだけだ!みたいな、自分の中の俺物語・剛田猛男が出てくるから、なりふり構ってなんかいられない。良いと思うものが好きなだけなんだから。
好きなモノに興味を失っていく事はものすごく寂しくて、悲しい気持ちになるのである。そんなのもう味わいたくない。今ある自分の趣味を大切に、心の底から愛したままでいたい。
琴線に触れたモノを集めて、広げて、心の安らぎをさらに探そう、突き放してしまった昆虫も恐竜たちも無駄にならないように、大切に。
長髪からみた手の甲の刺青
手にメモをよく書いてしまう。ひらよりも手の甲に書いてしまう。
ある日、ダサい街からダサい通りを通っていつものように帰っていた。時代に乗れなかった韓国料理店やハワイもどきの店が並ぶ通りの終盤には、明らかに異質でヤバい骨董品店がある。
店先に出ていた骨董品店の店主を見て確信した、やっぱりヤバい人だわ。掃除をしていただけなのに、別に悪いことをしていないのにめっちゃ怪しい。長髪の怪しいヤツを思い浮かべてほしい。まんまその店主。友人二人と帰っていたが、他愛もない会話の裏に少しの緊張が走っていた。絶対私たちの胸中は(怪しすぎるアイツ)で一致していたはずだ。
話しかけられたくない。話しかけられる理由はない筈だけれど、心からそう願っていた。
「ちょっとそこのお嬢さん」。きた。まさか。マジか、え。怖。気づいていないフリをして小走りをしてもダメだった。呼び止められた。こえーよ。
長髪店主の友人が書道展を開くから宣伝してほしい、とそれだけの内容だった。早く終わらせたかったから、謎のチラシもたくさん貰った。
何より衝撃だったのは、手の甲にメモをたくさんしていた私に対して、「あんた刺青してるの?」。
ガチで聞かれた。長髪はヤバい奴だけど、ちょっと遠慮気味に聞いてきた。ヤバいなりに気を遣ってまで「刺青かどうか」を聞きたかったとか、脳天から爪先までヤバい奴だな。だって圧倒的に刺青な訳ないだろ。「数学ノートもってくる」なんて刺青をする人はいますか。いません。絶対にいません。私が刺青をするとしても、そもそもそんなの彫らない。
マジで忘れられない。なぜか今日、ふと思い出した。
その書道展のチラシは、友人もおかしくなっていたのか怨念が付いてるとか言って、駅のゴミ箱に捨てていた。勿体ない気もするが、正しい気もする。あの長髪の威圧感はすごかったな。ホンモノの骨董品店店主って感じ。いい思い出。刺青、骨董品、長髪、この言葉を見るだけで思い出す。
記憶に住み着いてしまったあの骨董品店。今度通った時には内装までよく見てみようかなあ。
「ぽい」はポイで、ポイしたい
憧れの世界がある。目の前のことをコツコツと一喜一憂しながらでもいいからやっていけば、たどり着ける場所なのだろうか。
あの浅はかな人が言う「憧れ」とわたしが言う「憧れ」、違うと思いたい。こんなことをこんなところで言う時点で自分は相当な野暮だけれど、違うと思っている。浅はかなあの人はいつもヘラヘラ笑っていて、芯がブレていて「それっぽい」モノで満足する。変なの。「ぽい」に惹かれる人の気が知れない。
わたしは、そんな「ぽい」ばかりな方と表向きは同じように「憧れ」を持っているけれど。嫌だ。周りからはこんな事どうでもいいような話だから、別に「ぽい」も「ぽくない」も同じように扱うだろう。やめてよ一緒じゃない。わたしはいつでも本物に近いものを探していたい。「ぽい」で満足したくない。こんなヨーグルトのホエイみたいな気持ち、誰にも掬いようのないヤツだ。ただ、いつでも心の奥にある気持ち、「ぽい」は嫌だ。
それこそ「ぽい」ものって、薄くてすぐ破れるポイと同じ。金魚なんかすくえたもんじゃない。だったら、わたしは恥をかいてでも厚い紙を探し続ける生き方をしたい。100回すくって1匹しか取れないよりは、1回で100匹取れる紙を探したい。わたしの中にある「ぽい」モノなんて全て捨ててしまいたい。ポイしたい。
憧れる気持ちを持つことは素晴らしいことだ。ただ、それが「ぽい」で構成されているものでも満足できる人はつまらない。くだらない。だから私は、いつでもポイみたいな「ぽい」をポイしていたい。自分の手で探し出した厚紙でありたい。
下衆ラジオ
有吉のSUNDAY NIGHT DREAMERを聴く。世の中にはセンスがある人が集まる場所があって、しかもこんなにたくさんいるのだと気づく。超面白い。
「日記」のコーナーでも、情けない日常に対してもポジティブなゲスナーたちが無駄に愛おしく見えてくる。本当に最低な日々を過ごしている人たちなのかもしれないが、それをセンスに笑いに変えているところを見ると、自分の世界の狭さと世の中の広さにハッとさせられる。
すごい好き。超面白い。腹よじれる。有吉の悪ノリに振り回されるアシスタントたちも楽しそう。いいラジオ。
こんなに芸能人の悪口を、コンプラを越えたことを言っているラジオもなかなかない。テレビだと『クイズ☆タレント名鑑』、『クイズ☆スター名鑑』が担ってくれていたのかもしれないが、惜しくもベン・ジョンソン、ボビーのせいで終わってしまったので仕方ない。その欲求をさらにサンドリにぶつける。
最近、ラジオがどんどん好きになってきてしまった。ぼちぼちしか聴けてないけれど、のめり込んでいる。
飛沫を纏う『愛し愛されて生きるのさ』
小沢健二。オザケン。すげー。いつでもすごい。なんなのこの人。
アルバムの『Life』、新しい。24年前に発売されたものなんて思えない。昨日出ましたって言われても全然信じる。
一曲目の「愛し愛されて生きるのさ」。この曲すごいよね、歌詞云々よりまずこのインパクトのあるタイトル、ふとした時思い出す。忘れられない。
退屈な話を聞いてる時、満員電車の八方塞がりの時、ダサい街をやっとの思いで後にする時、脳内の泉に寡黙な住民が「愛し愛されて生きるのさ」という言葉をぶっきらぼうに投げる。水しぶきをあげながら私の中にこの言葉が沈む。その脳内住民は決して丁寧には投げ込まないけれど、幸せなイントロが飛沫に紛れて流れるから良いのだ。その飛沫に小鳥や野うさぎが集まってきそうな勢い。いかつい顔の住民にも笑顔がほころびそう。そんな妄想が膨らむ。日常のとるに足らない時に思い出しては少し心を充実させる魔法のよう。つい口に出して言いたくなる「愛し愛されて生きるのさ」。
曲自体が日曜の午後2時。とにかく幸せになる。めちゃくちゃに眠くなっても、やることがたくさん溜まっていても、どうにかなるように思える。
私も可笑しいくらい愛し愛されて生きている事を自覚できるまでの大人になりたい。そう思わせてくれる曲。素敵です。いつでも、気分が沈んでもあがっていても聴いていたい曲。素敵です。